東京の1月:東京人の東京観光 - 東京生まれ東京育ちな東京人による東京再発見の為の東京観光名所 風景写真体験記

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東京人の東京観光

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旧吉良邸と赤穂浪士討ち入り後の引き上げルート

旧吉良邸と赤穂浪士討ち入り後の引き上げルートを辿る

旧吉良邸と赤穂浪士討ち入り後の引き上げルートを辿る

12月になるとテレビ番組で 『忠臣蔵』 が放映されますが、どうして12月になると忠臣蔵がテレビで長時間使って放映されるのか?忠臣蔵ってどういう意味なのかずっとわからなかったんです。討ち入った時期が12月だったんですね。

その『忠臣蔵』討ち入りの場所、吉良邸は両国三丁目(旧・本所松坂町)に一部が残っています。その名は本所松坂町公園。普段は小さな公園として公開され、内部には稲荷神社や首洗い井戸、各種説明板があります。公園というより史跡に近い印象です。

両国駅から旧吉良邸跡まで

公園内の説明板によると、昔は上図のオレンジ色の区域が吉良邸たったようで、右側が表門、左側が裏門だったようです。そうすると、大石内蔵助のグループはオレンジの右辺りに集まったのだろうか?公園は普通の町の中にあり、ここへ来るまでの数十メートル(?)は実は旧吉良邸の中。上図のも実は旧邸内だったようです(表門跡や裏門跡など、各所に説明板が設置されています)。

旧吉良邸跡 見取り図(本所松坂町公園)

内部見取り図はこんな感じ(上図)。決して広いとは感じない、10人も入ったら混雑を感じるのでは?首級を挙げた赤穂浪士はその後、回向院では門を閉められ、両国橋を渡ろうとしたところ拒否された為、隅田川下流へと南下。一の橋を渡って更に南下し、永代橋を渡った模様(当時の永代橋は現在のものより130mほど上流にあったそうで、現在その地には記念碑があります)。この時、立ち寄った味噌屋で甘酒を飲んだんだそうですが、その時の模様は現在も『ちくま味噌』前の石碑に刻まれ、最近では討ち入り日前から名物甘酒の販売がなされるようです。≫ちくま味噌

討ち入り後、赤穂浪士たちが辿った泉岳寺までのルートはだいたいこんな感じ。資料は泉岳寺にある赤穂義士資料館です。

討ち入り後の赤穂浪士らのルート

今の聖路加病院付近にあった浅野邸付近を通り、築地の横を通って昭和通りから国道15号・第一京浜。高輪大木戸を通ってすすんで泉岳寺へ。この当時の泉岳寺前の坂からは海が見えたとのことです。

現地の様子

現在の旧吉良邸跡付近には店舗の類が少なく、隣に『佃煮の小松屋(喫茶あり)』と脇に自動販売機が一つあるだけですが、毎年12月の第二または第三土曜日とその翌日の日曜日には公園周辺で元禄市が開催され、たくさんの人で賑わうそうです。≫元禄市 松坂睦

また、討ち入り日の期間中、赤穂浪士が辿った道を歩く忠臣蔵赤穂浪士ウォーキングツアーを催行するグループも多く見掛けられます。

尚、浅野内匠頭、大石内蔵助ら赤穂四十七士の墓所のある泉岳寺では討ち入りの日に義士祭が開催され、墓参者や露店で境内は大変賑わいます。≫泉岳寺 義士祭

2012

両国駅前にある観光案内所を出発し、吉良邸周辺の縁地を歩く『忠臣蔵ゆかりの両国を歩く』や、築地本願寺までを歩く『赤穂浪士引き揚げルートを歩く』が墨田区観光協会で催行された。

赤穂浪士とは

赤穂(あこう)とは、現在の兵庫県赤穂市付近の地名で、江戸時代に浅野家を主人(藩主)とした赤穂藩があったところ。現在も「赤穂の塩」として古くからの塩の産地。浪士とは、浪人となった武士。つまり、仕事を無くした・失業した武士・役人。赤穂浪士とはつまり、赤穂藩の武士だった武士といった意味。

赤穂浪士の墓

東京品川の泉岳寺にある。毎年、赤穂浪士が討ち入りした12月14日には祭りが執り行われ、多くの人たちが赤穂四十七士のお墓を参拝し、線香がたかれる。泉岳寺の義士祭は毎年の春と12月4日。

入場料金

無料(公園の一種です)

利用時間

日中は開放されていると思われるが、夜間は閉場するものと思われる。

その他情報

■吉良邸跡の隣の『佃煮の小松屋』という茶屋には、甘酒やコーヒーなどで一服できそう。名所探訪に役立つリーフレットや吉良邸跡の案内本なども置いてある。■赤穂浪士が凱旋時に甘酒を飲んだ『ちくま味噌』では、この時期に合わせて店頭で味噌や甘酒を販売する(2012)。

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